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虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月

2024-10-09

1973年の1シーズン存在していたプロ野球球団の物語で、ファイターズが誕生する前の貴重な野球史の1ページです。本の帯には「東映から日本ハムへの『懸け橋』として球界に一瞬浮かんで消えたレインボーチーム」と記されてします。球団名自体は知っていましたが、当時は「プロ野球ニュース」の放送もなく、北海道でその映像を見る機会はほとんどなかったと思います。本のタイトルは球団名物だった“七色ユニフォーム”にちなんでいます。
巻末には所属選手の成績一覧が掲載されていて、名前を見ると往年の名選手がズラリと並んでいます。とはいえ、張本選手の活躍はジャイアンツへの移籍後しか知りませんし、大杉選手はスワローズ初優勝時の一員といったイメージです。土橋監督は後の「プロ野球ニュース」のご意見番、尾崎投手は引退後のバラエティ番組に出演していた記憶があります(肩書はいずれも当時)。
シーズン後期日程最終日の10月16日、新聞報道でロッテ球団との合併構想が報道されました。それによると、合併成立後は5球団制から日程作成が簡単な4球団制に移行すること、4球団制にならなくてもセ・リーグと1リーグ制移行の話し合いを行うとの内容でした。結局このときの合併話は実現せず、11月に球団は日本ハムに譲渡されました。日拓ホームの球団保有期間は10か月ほどで、この球団名でドラフト会議に出席することはありませんでした。

ここからは個人の感想ですが、もしファイターズが2004年時点でも東京のチームだったら、再び起こったプロ野球再編騒動の中で「もう一つの合併」の当事者になっていたかもしれません。この年に北海道に移転して、現在監督を務める新庄選手の活躍などで北海道は大いに盛り上がりました。この盛り上がりがあったからこそ東北、仙台でも新球団をとの動きが起こり、楽天イーグルス誕生という形で12球団2リーグ制が維持されました。そう考えると「日本ハム」がプロ野球2リーグ制の危機を2度救ったといえるのではないかと思います。

「許す」を考える

2023-02-23

五木寛之さんのエッセイ集である『生きるヒント』、その第3巻の中に「許す」と題する章がありました。
ガンで亡くなった五木さんの友人は、「すばらしい秀才でした。意志もつよく、決断力もあり、ぼく(=五木さん)なんかよりはるかに几帳面な紳士でした。」その友人の几帳面さは、『どんなに家に帰るのがおそくなっても、必ず日記をつける』というものでした。そこに日々記していたことについて、『きみ(=五木さん)にも一日のうち一つぐらいは、許せないことって、あるだろう』と語ったとのこと。
「日記に書くといくぶん楽になる、と彼は言う。しかし、文章に書くという行為は、その許せない事柄を記憶の中に再現して、さらに文字に刻みつけることになりはしないか。」「毎日のように日記に<許せない!>相手の名前を書き、その出来事を記録する生きかた」には「無理があり」、「そんな無理をつづけていて、心身のバランスが保たれるわけは」ないことを五木さんは心配して、『そんなふうじゃ長生きできないぞ』と言ったこともありました。
結局その友人は「それまで一度も病気をしたことがないと聞いてきたのに、健診でガンが発見されて、半年もたたずに亡くなってしまった」そうです。

<許せない!>ことを文字に刻み付ける行為が心身に少なからず負担をかけていたのかもしれません。
すべてを許せなくても、上手に忘れるなどして、そうしたことを自分自身から解き放つことの必要性も考えさせられました。